2015年2月28日土曜日

落穂拾いをしよう!

1時間は短い。


ボヤボヤしてると、あっという間に終わってしまう。


1日は擦り減る。


日々の繰り返し。
貴方の靴底のように、気づけばすっかり擦り減っているものだ。


人生は退屈だ。


そう、あくびが出るほど退屈なのだ。


でも、

その短くて擦り減って退屈な人生の中に、弱く輝くものがある。


それは違和感


自分に嘘をついたときに感じるもの


それは気付き


ふとした瞬間に現れるもの


それは些細な罪悪感


自分を粗末に扱った時に感じるもの


それはキラキラと輝く理想の自分


人生に影がさすと、しきりに現れるもの。



僕はそれを落穂と呼ぶ。

落穂は、人生をより良い方向へ運ぶ。

落穂は、堕落した人生を救う、希望の光。

だから落穂は、決して粗末にしてはならない。

落穂は、人生のそこら中に散りばめられている。

だが落穂は、それ自体が非常に小さく、簡単に見失ってしまう。



落穂を見つける事を怠けた人間は、急速に落穂拾いが下手になる。

純粋な子供は、それを大人と呼ぶ。
こんな大人には成りたくないと言う。

あなたは、今の自分にそれが言えるだろうか。



見つけよう!
些細な違和感を!

感じよう!
些細な罪悪感を!


落穂を集めて、毎日思い出して

決して忘れないで

Jean-François Millet (II) 002.jpg
"Jean-François Millet (II) 002" by ジャン=フランソワ・ミレー - The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH.. Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.

2015年2月15日日曜日

”家畜の飼料”を食べているということを、常に意識しなければならない

「歩きながら食事をするな」 と、よく注意された。

マナー違反だからという理由だったが、自分には良く分からなかった。

移動しながら食べることで時間の節約になるし、食べるものにこだわりは無かったから、空腹が満たされればそれで良かった。

歩きながら食事をするということは、とても合理的なことなのだ。食事に何十分も時間を費やしているなんて、”アホなんじゃないか?”と思っていた時期すらあった。

今は飽食の時代。食べ物は巷に溢れかえっていて、困ることはない。そして安い。
つまり、食事をするためにお金も時間も大して必要ではない。

適当に仕事をして、適当に給料をもらってさえいれば、簡単に生きることができる。
(これは戦後に頑張ってくれた人たちが残してくれた遺産だから、感謝しよう!)


しかし、これには大きな弊害がある。

簡単に生きれてしまうために、命までもが簡単に、そして安っぽくなってしまうのだ。

生きるために大した努力をしなくなるためだと、僕は思う。
食事は本来、もっと有難いものなのだ。日々を生き延びるためのイニシエーションと言ってもいい。

つまりは、歩きながら食事をするということは生きることを軽視しているという事になる!



安っぽく見えてしまう、分かりやすい例が3つある。

例1 コンビニでの買い食い

コンビニの前で、パンやカップラーメンを食すサラリーマンや学生を見てみてほしい。
パンを頬張るだけで、ラーメンをすするだけで、とても安っぽく見えないだろうか?
佇まいが、人格が、服装すらも!

例2 牛丼屋のオッサン

カウンターに並び、背中を丸めて、終始無言。食べ終わったらそそくさと出て行く。
是非、ガラス越しに観察してほしい。あの寂しい空気感を。あの安っぽく擦れきった風景を。
明らかに人生を謳歌してないだろって感じを。
(特に松屋がオススメ)
(店内を出たり入ったりする様は、搾乳器に並ぶ牛に似ている)

例3 朝食シリアル

必要な栄養素もきっちり補える健康食?
いいえ、あれは見た目も機能も家畜の飼料です。


これを防ぐためには、今自分が食べているのは家畜の餌だということを、強く意識することだろう。
また、その店の空気感に飲まれないことも大切だ。

”家畜の餌系”の食べ物は極力口にしないというのも、出来る範囲で行ったほうがいいだろう。
(ちなみに僕の基準では、牛丼・マック・コンビニフード・カップラーメン・朝食シリアル・カロリーメイトなどがそれに当たる)

「頂きます」 「ごちそうさまでした」をきちんと言うことも、大切だと思う。(この歳になってこんなこと言うのもなんだか恥ずかしいけど)

時間が許すのならば、自炊もいい。

それと、歩きながら何かを食べるってことはもうしないことにする。
(何となくクリスタルじゃないし、シックでもないからね!)



物質的には豊かになったけど、明らかに精神的には貧しくなっている。

いろんなことが、安くなりすぎた。

だから自分の価値を高めるために、何かしなければならない。

まずは食べるものから。

2015年1月25日日曜日

人間失格を読みました。


とても重いのです。
 
   一文一文が自分の心に突き刺さり、とても重いのです。

とても軽いのです。

   日常が、人が、命が、、、とても軽いのです。

到底、理解出来ないのです。

   なぜあんなにも不器用なのか、なぜあんなにも悲劇的に生きるのか、到底理解できないのです。

でも、とても分かるのです。

   人に怯え、卑屈になる。また、内側に秘める虚無感は、とても分かるのです。

そして悔しいのです。

   自分をどんどん負のスパイラルに追い込み、そこから脱出できない状況が、とても悔しいのです。


真の人間として生きようと頑張っていたのに、なぜあんなにもうまくいかないものなのだろう。

どうして、人間失格の烙印を自分に押すまでにズレてしまったのだろう。。。



実は僕も上手く笑えない人間なのです。
カメラを向けられた時、どうやって笑っていいのか、よく分からないのです。
自意識過剰なのかもしれません。

何か嬉しいことがあっても、そぞろ虚しく、ただ上辺だけを見繕ったりもするものです。

違う。そうではない。
でも、どうすればいい?

誰か教えて欲しい。上手く生きる方法を。
誰か見出して欲しい。僕の生きる喜びを。。。




そして父親に良く似ているのです。
酒で寂しさを紛らわすところが。
「お酒はいけません。」
と、薬局の女将さんが言っていたけど、それはまがまがしい現実で、つい目を背けたくなるのです。

でも、お酒でなんとか命を繋ぎ止めている人もいると思うと、とてもやりきれない思いになるのです。


人間は何処にいても、誰と居ても、どうしようもなく孤独なのかもしれない。
その気分を紛らわすために、お酒を飲むのは、どうにも悲劇的になっていけない。



それと後、お金に困ったら女の着物を質に入れるのはやめたほうがいいと、
服好きの人間は強く思うのでした。



そんな本を読んでブルーな気分になっていると、全く正反対の本を読みたくなるのです。

これは、このブルーな気分を完全にぶち壊すほどの処方箋です。
合わせて読むと宜しいかと思います。

2015年1月4日日曜日

人生は下りのエスカレーターに乗っているようなもの

だと、どっかの社長がテレビで言っているのを見た。

これ、すごく納得した。

放っておくと、全ての事が ” 下って ” いく。


若さも
健康も
能力も
志も。。。


僕が一番嫌いな言葉は、

継続は力なり

だ。 (好きな言葉は棚から牡丹餅。犬も歩けば棒に当たる)

だけど、それを怠ると下りのエスカレーターの流れに飲まれることになる。


これは結構面倒くさいし、もどかしい。

中途半端な努力で下りのエスカレーターを上っていても、下るスピードと上るスピードが打ち消され、全く前に進めない。

ちょっと前に進んでいたとしても、実感が湧きにくい。


苦行だ。


エスカレーターを下っている方が、遥かに楽だし楽しい。

でも、下っているだけの人生なんて、惨めでしょ?

底辺まで下りて、見上げるだけの生活なんて。。。

だからさ、今自分がいる地点が、一番高いところだから,

今から上を目指してた方がいいと思うんだ。



でも、、、

何をどう頑張ればいいのか。
何を目指したらいいのか。。。

上への見通しが悪いと、なかなか上りにくい。

高度成長期の時は、三種の神器を買うとか、もっと豊かな生活を送るとか、大企業に就職して生涯安泰とかっていう分かりやすい目標があったけど、今の時代はそういうのが無くなってきた。

ゆとり世代で育ち、さとり世代にも片足を突っ込んだ僕には、分かりやすい目標とか、志とかを得るのはとても難しい。


明かりが必要なのだ。

エスカレーターの上の方を照らす明かりが。

そして安心したいのだ。

エスカレーターの上の方の景色を確認して。

。。。。

そんな都合のいい明かりは、存在するのだろうか。

今の御時世でそれを求めるのは、なんと愚かな事なのだろう。

約束された未来なんて、もう存在しない。

だからさ、

犬も歩けば棒に当たる

で、とりあえず暗闇の中駆け上がってみて、そこの景色を見るしか無いんだなって思う。


長々と書いたけど、つまり今年の抱負は

  • 継続は力なり
  • 犬も歩けば棒に当たる

ということで今年一年もよろしくです。